「ロザリーさん、山に登ろうよ!」
「ヤマ…とはなんだ?」
肌寒いある朝、朝食を一緒に食べながら、ネネは突然言い出した。
「山っていうのは、ええとね、地面が盛り上がってるところだよ」
ネネは両手を合わせて、三角形を作った。
アリスは幾度かわたしを外へ連れて行ってくれた。そのときの記憶を手繰り寄せる。
「…川のそばにある、あの高くなっているところの事だろうか?」
「それは土手だね。もっともーっと高くて、細くて、急に盛り上がってて、もっともっと木が生い茂ってるのが山だよ」
「そうか。そんな所の上まで登るのか?…そう聞くと、だいぶ過酷なところのように思われる」
「そうだね。登ったらその夜はぐっすりだよ」
「ぐっすり…とは、一体何だろうか?」
「そっか、ロザリーさんって毎日寝るようになってからまだあんまり経ってないもんね」
ネネは窓の外を見た。わたしも外を見る。今朝は寒いが、窓の外には青空が広がっている。きっと、昼には暖かくなるだろう。
「うーん、お天気もいいし、今日さっそく一緒に山に登らない?」
「急だな。山というのは、過酷な所なのだろう?そんなに急に決めてしまって大丈夫なのか?」
「大丈夫だよー、近所の山はそこまで高くないし、わたしは何回も登った事あるもん」
「そうか。よく分からないが、ネネがそう言うのであれば、きっと大丈夫なのだろう」
「やった!じゃあ、お昼何食べるか考えよ!」
ネネが嬉しそうにはにかんだ。ネネがはにかむと、わたしも嬉しい。
だが…わたしには、山は登れるだろうか。過酷なところだ。わたしが足を引っ張って、ネネを心配させはしないだろうか。
「どうしたの?ロザリーさん、急に考えこんじゃって」
「いや、なんでもない。…お昼か。ふむ…、山に登るというのは、すごく過酷な行為なのだろう?お昼は昨日買った、鶏肉を用いたステーキなんかはどうだろうか。おそらく、お腹が減るだろう」
「えっ、山にステーキ持ってくの?」
「山で食べるのか?家に帰ってからどのような昼食を取るかについて考えていた」
「ちがうよ!山に登って、山のてっぺんのところで食べるの」
「そうなのか…?調理器具などはどうする?山のてっぺんには、さすがにコンロやグリルは無いだろう?」
「うん、無いよ」
「細長いところのてっぺんとなると、座る場所や、テーブルなども無いのだろう?」
「座る場所ならあるよ。レジャーシートがあるから。でもテーブルとか椅子とかは…ないかな」
「そうか、それなら…」
わたしは、いつの日かの、アリスとのピクニックのことを思い出した。
小学校の時から何度も登ってる近所の山。今日もいつも通りで、なんだかとっても安心する。空は青くて、葉っぱはまだまだ蒼くて元気。赤くなるのは、きっともっと先かなぁ。日差しは強いけど、当たると気持ちよくて、…日光浴って感じかな。
…いつもと違うのは、今日はロザリーさんと一緒なこと。ロザリーさんはわたしよりぐんぐん先に行っちゃて、全然追いつけない。…そういえば、初めて会った夜のロザリーさんは、すごく速くて、すごく力強かったっけ。あの目の怖い殺人鬼と、目の前のロザリーさんは、どうしても同じには思えない…けれど…。
「ネネ、大丈夫か?息が荒い。体調が悪いのか?わたしはまだ体力が残っている。背負って山を降りたほうが良いだろうか?」
「ロザリーさんが早すぎるんだって~。わたしは普通だよ~。…はぁ、…はぁ。でもちょっと休憩したいかも」
「そうか。そうだったな。人間の体は、ずっと動いていると疲れて動けなくなるんだったな。すまない、忘れていた。休もう」
「ロザリーさんも人間の体でしょ」
「そのはずなのだが、疲れというものが、どういうものか分からないんだ。強いて言えば、足の筋肉のいつもよりもこわばっているだろうか。強く意思を掛ければ足はまだ制御できるが」
「それが『疲れ』っていうんだよ~、ロザリーさんも休まないと!動けなくなる前に休まないと倒れちゃうよ!」
「そうだったのか…。ああ、わかった…」
途中にあった丸太のベンチに座って、ロザリーさんと水を飲んだ。うん、頂上まではもうすぐ。この調子なら、お昼ちょっとすぎぐらいには、山頂に付くかな。おなかぺこぺこだけど、がんばろーっと。
「ロザリーさんは、お腹すいてない?」
「ふむ、そうだな。あと20~30分程度なら、今までと同じぐらいの勢いで上れると思う。そこまでなら、食料が足りなくなることも無いだろう」
「ん、そっか。じゃ、また上ろうか。たぶんその頃には山頂に着くよ」
「あぁ」
…
……
………
ぜぇぜぇ…。山頂についた!この山は、山頂が大きな岩の上。手すりなんかもなくて、すこし怖いけれど、でも見晴らしは絶好なんだ。
山頂にある大きな岩の上によじ登ると、わたしはくるくる回って、来た道や、行ったことの無い山の反対側、空と雲、まだまだ葉っぱが蒼い木々、…みんなに、心の中で挨拶をした。
今日の山頂は、絵に描いたような秋晴れだった。上空に広がるうろこ雲。ずっと遠くまで続いて、空の青色に霞んでいく山々。
「すごいな。山は土手に比べてとても高いとは聞いていたが、まさかここまでとは。大分遠くまでみえる。遠すぎて、あそこにあるものが何なのかわからないぐらいだ」
「でしょ~」
「空が青いのは毎日見ているから知っているが、ここは真っ青だ。それに、とても広い。山では、世界の半分ぐらいが空なのだな」
「うんうん、街と違って、遮るものがなんにも無いからね」
「雲をこんなに近くで見たのは初めてだ。動きがすごく速い。それに…登りはじめたのは、あの赤い門の所から、だよな。それが、あんなに遠くに…」
ロザリーさんはとても元気!でも…どこか息がぎこちないかも。きっとこれは…
「だね-。その分、疲れたでしょ。わたし、おなかぺこぺこ~」
「うむ。…では、ネネがお待ちかねの、お昼としようか」
やっぱりね。
「やったー!」
ロザリーさんの作ってくれたのは、サンドイッチ。甘辛い味付けの鶏肉がおいしい。ロザリーさん、どんどん料理がうまくなってる気がする。
「おいしい。このレシピも、昔アリスとパパが作ってたの?」
「いや。これはテレビでやっていたんだ」
「そっか。勉強熱心だね、ロザリーさん」
「やることがないだけだ」
「そう?でもありがと」
うん、おいしい…わたしは…このおいしい時間のために登った…のかな?なんてね。
山頂からは、たくさんのトンボがみえた。上も下も、右も左も、じーっと空に浮かんだトンボだらけ。
…
…そういえば、昔、ネズチュウさんと登った時も、たくさんのトンボが居てびっくりしたっけ。…ロザリーさんになら、お話しできるかな。
「わたしね、昔友達だったぬいぐるみが居たんだ」
「そうか。…仲は、良かったのか?」
「すっごくね。寝るときはもちろん毎日一緒。どこへ行くときも一緒。今日みたいに、山に登る時も、もちろんね」
「本当に、仲がよかったんだな。かつてのわたしとアリスのように」
「きっと、そうだろね。そういえば…学校に連れて行こうとして、ママに止められてね。それでも、むりやり一緒に行った事もあったっけ。先生にすぐに見つかって没収されちゃった」
「だから、今のネネの家には、その友達は居ないのか?」
「…」
…そうだったら、良かったのかな。でも…。
わたしはロザリーさんから、目をそらして。
「ううん。すんごく泣いてさ。『返して、ネズチュウさん、返して-!』って泣き叫んでね。そしたら、夕焼けになる前には返してもらえたよ」
「そうか。…よかったな。ネズチュウさんも、さぞ喜んだことだろう」
「うん。大喜びだよ。嬉しすぎて、その日は一緒にお風呂入っちゃった」
「…そうか。ネズチュウさんには、きっと中々、刺激の強い1日だったろうな」
「ふふふ、そうだろね。でもね。次の日はよく晴れてたから、日光浴してもらってね。そしたら、元気に復活してくれたよ」
「それはよかった。…そのネズチュウさんは、今どこに?ネネの家はくまなく掃除しているつもりだが、ぬいぐるみは見たことがない。…もしかして…」
「うん、捨てちゃった」
「…そうか。ぬいぐるみも、いつかは捨てられる運命にあるものな」
「ううん。違うの」
「…どういう事だ?」
わたしは顔をそらし続けて、秋の空とトンボたちに向かって話を続けた。ロザリーさんの顔を見て話す勇気が起きなくて。
「ある日、パパとママが離婚してね」
「…」
「裁判所?のおじさんにね。パパとママ、どっちについて行く?って言われて、そのとき、たまたまちょっとパパと喧嘩してたから、ママのほうについて行ったんだ」
「…そうか」
「…ネズチュウさんは、5歳の時のパパからのプレゼントだったんだ」
「…」
「あんなにネズチュウさんと仲良かったのに、いざパパとママが離婚して、パパとケンカしてたら、ネズチュウさんとも口が聞きたくなくなっちゃって、見るのも嫌になっちゃって
…ある日の朝、燃えるゴミで捨てちゃった」
「…」
「…ひどいよね、ネズチュウさんはなんにも悪くないのに。」
「…あぁ、そうだな。ネズチュウさんは、なーんにも悪くない。」
「…だよね。」
わたしは、ロザリーさんの方へ顔を戻した。そうしないといけない気がした。
「しかし、我々人形やぬいぐるみは、誰かの想いによってプレゼントされて持ち主と巡り会い、持ち主の想いによって生きているんだ。」
ロザリーさんの顔は、とっても真剣だった。
「…」
「ネズチュウさんは、おそらく、己を見て悲しむネネを見て悲しんでいたのではないだろうか。もちろん、ネズチュウさんの気持ちは、わたしにはわからない。だが、もし、わたしを見てアリスが悲しんでいたら、わたしは悲しい。」
「ネズチュウさんが悲しかったら、わたしも悲しいな」
「…ネネは、優しいな」
「そうかな?わたし、捨てたのに…しかも燃えるゴミで」
「…たしかに、その通りだ。しかし、ネズチュウさんはぬいぐるみだ。ネネの心を、直接癒やすことはできない。もっとネネを悲しませる前に、ネネの前から離れることぐらいしかできない。だが、ぬいぐるみは自らネネの前から離れることもできない。つまりネネは、ネズチュウさんの代わりに、ネズチュウさんにとってできる最善のことをした。わたしは、そう思う」
「…でも、わたしがパパの事や離婚の事で悩んだりするのをやめて、受け入れられていれば…捨てることなんか…」
「もちろん。きっと、燃やされている最中のネズチュウさんは、いつかネネがパパの事で悩んだり、落ち込まなくなるのを祈っていたと、わたしは思う」
「…ロザリーさんも、やさしいね。ありがと」
「そうか?わたしは、わたしだったらどう思うかをそのまま喋っただけだ」
「ふふふ。そろそろ、降りる?風が強くなってきたよ」
「…そうだな」
帰りはロープウェイで帰ったんだけど、ロザリーさんはこれも初めてみたい。ロザリーさんは、風でゆれるたびに「おお!」って楽しそうだった。わたしが昔初めてロープウェイに乗った時は、落ちそうで怖かったのに。ロザリーさんのあの余裕は、一体どこから…。
その日の夜は、疲れてぐっすり眠れると思ったのに、どうしても眠れなくて。わたしはロザリーさんがいつも寝ている、一階のソファに降りた。
「…ロザリーさん、今日は一緒に登ってくれてありがとう。…一緒に寝てもいい?」
「いきなり、どうしたんだ?」
「ロザリーさんと一緒に山に登ったら、なんだか、寂しいって気持ちを思い出しちゃって。迷惑かな?」
「何を言っている。そんな気持ちに答えるのが、人形というものだ。わたしで良ければ、一緒に寝よう」
「ありがと!」
半分人形のロザリーさんは、わたしより少し冷たくて、でも、暖かかった。
それからは、毎日ロザリーさんと一緒に寝るようになった。毎日毎日、今日あったことをお互いに話ていると、気がつくとすやすや眠っちゃう。…わたしはもっと、話していたいのにな。