From 54aac9243a2159a4ba58396cc987ebe55f1a950c Mon Sep 17 00:00:00 2001 From: Iosif Takakura Date: Wed, 15 May 2024 08:31:25 +0900 Subject: [PATCH] First Commit --- catalog.yml | 17 ++- chapter/are.re | 127 +++++++++++++++++ chapter/dedication.re | 9 ++ chapter/eien-no-kioku.re | 3 + chapter/futatabi-no-manabiya.re | 3 + chapter/fuyu-no-shukusai.re | 3 + chapter/kikyo.re | 3 + chapter/one-year-period.re | 3 + chapter/tsugaru.re | 107 +++++++++++++++ chapter/watashi-no-yume.re | 233 ++++++++++++++++++++++++++++++++ 10 files changed, 499 insertions(+), 9 deletions(-) create mode 100644 chapter/are.re create mode 100644 chapter/dedication.re create mode 100644 chapter/eien-no-kioku.re create mode 100644 chapter/futatabi-no-manabiya.re create mode 100644 chapter/fuyu-no-shukusai.re create mode 100644 chapter/kikyo.re create mode 100644 chapter/one-year-period.re create mode 100644 chapter/tsugaru.re create mode 100644 chapter/watashi-no-yume.re diff --git a/catalog.yml b/catalog.yml index 3817d53..d4d2943 100644 --- a/catalog.yml +++ b/catalog.yml @@ -2,17 +2,16 @@ PREDEF: - preface.re CHAPS: - - ReVIEW独自マークアップ言語: - - test.re - - Markdown: - - markdown.re - - Microsoft word: - - word-ref.re - - custom-reference.re + - are.re + - tsugaru.re + - one-year-period.re + - watashi-no-yume.re + - fuyu-no-shukusai.re + - eien-no-kioku.re + - futatabi-no-manabiya.re + - kikyo.re APPENDIX: POSTDEF: - postscript.re - - bib.re - diff --git a/chapter/are.re b/chapter/are.re new file mode 100644 index 0000000..d8d876b --- /dev/null +++ b/chapter/are.re @@ -0,0 +1,127 @@ += アレ + +== 一 + +近頃、周りで流行っている言葉がある。 + +そう、「アレ」だ。 + +そんな言葉、ただの指示代名詞と思ったあなたはおそらくは正しい。文法上は特定のものを指し示すに過ぎない言葉なのだから。 + +だが、世の中には言霊がいるのだ。言ってしまうと遠ざかってしまう言葉。それを代わりに指し示す言葉こそ、「アレ」なのだ。周りで語られている「アレ」が指すものとは、とあるプロ野球チームの優勝を指す言葉である。そのチームは、阪神タイガース。関西を中心に熱狂的なファンが多いことで有名な球団だ。このチームが日本一になったのは、一九八五年の一回きりである。日本シリーズには行くのだが、惜しいところで栄光を逃してしまう。それが、阪神タイガースなのだ。 + +そんな「アレ」という言葉が巷を賑わせるようになったある日、私は鎧を着た友人から近々「アレ」が決まるということを聞いたのだった。セントラルリーグの優勝が阪神タイガースに決まったときに、道頓堀に飛び込む会を開いた人だ。その時の熱狂を、覚えている。多くの人が道頓堀にごった返し、そして飛び込んでいった。それと共に彼らはビールを掛け合って喜んでいた。まるで選手たちのように。その熱狂が、再びやってくるのだ。私は先約を断って、いても立ってもいられずに道頓堀へとやってきたのだった。 + +「るいざさん、お久しぶりです」 + +鎧の青年が、語りかけてきた。彼こそが今回の言い出しっぺである。何と、このお祭りをテレビ局が取材に来るらしい。その話を聞いて、驚くほかはなかった。私は特に阪神ファンでもないのだが、阪神の優勝の珍事件をいろいろ聞いているからだ。動く蟹の看板によじ登ったり、くいだおれ太郎を投げ込もうとしたり。挙げ句の果てにはカーネル・サンダーズ像が投げ込まれ、そのまま道頓堀に消えてしまったという。カーネルが消えて以来、阪神タイガースは日本一に輝けていない。それどころか、Aクラスにすらなれない事もしばしばだった。このカーネル・サンダースの呪いを、多くの人が信じていたのだ。 + +「ああ、お祭り騒ぎになると聞いてやってきたよ」 + +私は、鎧の青年に頭を下げる。そうこうしていると、コウモリの羽を生やした少女がやってきた。彼女こそ、この道頓堀の催しを用意した人だ。 + +「こんにちは、今日はお集まりいただき、ほな、おおきに!」 + +そんな私たちはラジオのスイッチを捻る。ちょうど九回表、タイガースの攻撃だ。六点差で阪神が勝っている。相手は同じ関西のオリックス。この球団が今の形になるまではいろいろなことがあった。元々阪急と近鉄である。今は阪急と阪神は同じ傘の下に収まっているが、かつてはそれぞれが球団を持っていた。もし日本シリーズで阪神と阪急が対決したらという小説も書かれたほどだ。その時は最終戦までもつれ込み、ロカンボ先生こと喜多北杜夫が怪しい呪文を唱えることで世界が二つに分かれそうになったとされているが、今日は最終戦とはいえロカンボ先生はいないのだ。だから、変なことは起きないだろう。起きないと信じたいのだ。 + +「森下、打ちました! タイムリーヒットです!」 + +ラジオからの叫びにざわめく道頓堀。お祭り騒ぎの予感を聞きつけてすでに多くの人が集まっていた。 + +「また、一点か……すごいな……」 + +鎧の青年が驚く。これで、七点差。 + +「ロカンボ先生がでてこなければよいのだけど……と、チェンジか……」 + +阪神は追加点を入れて、その裏のオリックスの攻撃に移る。 + +「あと三人! あと三人!」 + +周りから、声が聞こえる。私も、胸は高鳴っていた。そんな打席には、頓宮裕真。抑えの岩崎の投げた打球を、頓宮のバットが捉えた。打球は、スタンドへ。オリックスに、一点を、返されたのだ。 + +「まだ六点や! 勝てるで!」 + +周りから声が聞こえる。頼む、ロカンボ先生、怪しい呪文を唱えないでおくれ。そう思っている内に、ツーアウトになっていた。そう、最後の一人だ。 + +「さあ、優勝が決まったら、飛び込みましょう!」 + +皆、戎橋の上に並ぶ。ラジオの音量は、最大。そして、最後のアウト。 + +「阪神タイガース、優勝、おめでとう!!」 + +最初に声をあげたのは、黒いパーカーを着た猫耳の女の子だ。その黒いパーカーには、阪神タイガースのロゴ。彼女もまた、阪神のファンなのだ。そして、彼女は真っ先に飛び上がると、道頓堀めがけて飛び込んでいった。 + +彼女に、続け。私も思いっきり欄干を蹴って、飛び上がった。私の身体は道頓堀の水に吸い込まれる。流石に、川の水は、冷たい。その横で、何回も水音が聞こえる。多くの人が、道頓堀に飛び込んだのだ。これこそが、カタルシスなのだろう。私たちは岸から上がると、用意されていたビールをお互いにかけ始める。そう、これは、優勝の宴だ。 + +「やったー、Vやねん!」 + +== 二 + +冷えた身体に、ビールが、染みる。お互いが、ビールを、掛け合う。このような歴史的瞬間に、私は居合わせたのだ。何よりも、ただそのことが、嬉しいのだ。だが、私の視界が、急にぐらぐらと揺れ始める。いつもの、めまいだ。身体が、動かない……。そこで、私の意識は途切れてしまったのだ。 + +そして、次の瞬間、私は見知った天井を眺めていた。そう、ここは、自宅だ。あわててテレビを付けると、阪神の優勝の知らせ。そう、あの出来事は、現実だったのだ。あわてて、私は道頓堀に戻ることにした。 + +その道頓堀では、宴がより盛り上がっていた。DJブースが出され、六甲おろしが辺り一面に響き渡る。釣られて、私も歌い出す。 + +「あ、るいざさん、おかえりなさい!」 + +私の旧友が声をかけてくれた。その旧友に近付こうとするが、なぜか、身体が、動かない……。また、あの病だ。ぐらぐらと揺れる大地。私は、下を向いていることしかできなかった。 + +そんな中に、私は白い服を着た男を見かけたのだった。そう、カーネル・サンダースだ。なんということだろう。このままでは、呪いが再び現実のものになってしまう! + +「やめろ、やめてくれ!!」 + +私はカーネルが道頓堀に飛び込むのを止めようと急いで橋の縁に向かおうとした。だが、その時、私の視界が、ぐらぐらと回り始めた。バランスを崩した私は、真っ逆さまに道頓堀に沈んでいく……。 + +== 三 + +「だから、こっちに、来るな……と言っている!!」 + +そんな私の脳内に、あの男の声が響く。ここは、道頓堀のはずだ。玉川上水ではないはず。 + +「危ういところであった。このままで行けば、私と同じ運命を辿っていたところだぞ……」 + +そう、私は井の頭公園の中の、玉川上水の畔に立っていたのだ。私は、ついさっきまで道頓堀にいたはずでは……。 + +「……もう、大変だったんですよ。あれから私とここねと、ラスクとハオランで大急ぎで駆けつけたんですから!」 + +カリンにお灸を据えられる。 + +「無事で、よかった……もう、心配したんですよ!!」 + +そんなここねにも抱きつかれる。 + +「私たちの助けがなければ、溺死するところだったわ……」 + +ラスクにも、しっかり叱られた。 + +「温かいシチューを用意しておきましたから、帰ったら食べましょう」 + +ハオランも、心配してシチューを用意してくれているらしい。皆の暖かい思いに、目尻に熱いものがこみ上げてきた。 + +「私が縮地の術を使わなければ、助けにはいけませんでした……あ、みなさんにありがとうと伝えてくださいね!」 + +竜神様の術で、どうやらカリンたちは助けに来ることができたらしい。 + +「心配をかけて、すまない……だが、アレは、事故だったんだ……」 + +そう、私は、道頓堀に飛び込もうとするカーネルを止めようとして、道頓堀に落ちたはず……だったのだ。そんな私のスマホに、着信が入る。あんな道頓堀に飛び込んだのに、なぜか、動いている。ただ、そのことだけが、不思議だった。その電話の元は、鎧の青年だった。 + +「るいざさん、心配したんですよ! やめろと叫びながら突然橋の縁から飛び込んで……」 + +その言葉に、私は耳を疑った。カーネル・サンダースがいたはずでは……。 + +「カーネル・サンダース? そんなものいませんでしたよ?」 + +では、何だったのだろう、あのカーネル・サンダースは。……まさか、「死」の誘惑か。私は事の経緯に、背筋を凍らせるしかなかった。ただ、今となっては私がこうして生きていることに感謝するだけだ。 + +「ありがとう。謎は残るが、おかげさまで楽しい時間を過ごせたよ……」 + +電話口に伝えると、青年も驚いていた。あの場に、カーネル・サンダースはいなかったはずなのだ。突然現れたカーネル・サンダース。その謎はあれど、今となっては、私が生きていることに感謝しなければ。 + +「そして、心配をかけてしまって、申し訳ない……」 + +私はただ誤ることしかできなかった。青年も、そのことはわかってくれたようだ。そして私は通話を終えると、ハオランのシチューのことを考えながら家路を辿るのだった。 + +その数日後、私はテレビの画面に映る己の姿を見てただ恐れおののくことしかできなかったが、それは別のお話。 diff --git a/chapter/dedication.re b/chapter/dedication.re new file mode 100644 index 0000000..353811e --- /dev/null +++ b/chapter/dedication.re @@ -0,0 +1,9 @@ +=[nodisp] 巻頭の辞 + +//centering{ +この本をこれまで出会ってきた全てのフレンドに捧げる。 + +そして、基底現実世界と並行現実世界で暮らす全ての人の平和と安全を、心から祈る。 +//} + +//printendnotes \ No newline at end of file diff --git a/chapter/eien-no-kioku.re b/chapter/eien-no-kioku.re new file mode 100644 index 0000000..e3fcc22 --- /dev/null +++ b/chapter/eien-no-kioku.re @@ -0,0 +1,3 @@ += 永遠の記憶 + +(2024年1月1日(月)能登地震と観心寺) \ No newline at end of file diff --git a/chapter/futatabi-no-manabiya.re b/chapter/futatabi-no-manabiya.re new file mode 100644 index 0000000..9649f02 --- /dev/null +++ b/chapter/futatabi-no-manabiya.re @@ -0,0 +1,3 @@ += 再びの学び舎 + +(CLUSTARS学園とTOKYO XR・メタバース展、『フルトラッキング・プリンセサイザ』と令和5年9月25日(月)の記憶) \ No newline at end of file diff --git a/chapter/fuyu-no-shukusai.re b/chapter/fuyu-no-shukusai.re new file mode 100644 index 0000000..46dd9bf --- /dev/null +++ b/chapter/fuyu-no-shukusai.re @@ -0,0 +1,3 @@ += 冬の祝祭 + +(コミックマーケット103) \ No newline at end of file diff --git a/chapter/kikyo.re b/chapter/kikyo.re new file mode 100644 index 0000000..3425734 --- /dev/null +++ b/chapter/kikyo.re @@ -0,0 +1,3 @@ += 帰郷 + +(エルフの里への里帰り) \ No newline at end of file diff --git a/chapter/one-year-period.re b/chapter/one-year-period.re new file mode 100644 index 0000000..a291f62 --- /dev/null +++ b/chapter/one-year-period.re @@ -0,0 +1,3 @@ += 一年間の思い出を + +(ここねの推薦合格と一年間の回想) \ No newline at end of file diff --git a/chapter/tsugaru.re b/chapter/tsugaru.re new file mode 100644 index 0000000..2ccc55a --- /dev/null +++ b/chapter/tsugaru.re @@ -0,0 +1,107 @@ += 津軽 + +== 起 + +//quote{ +もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。 + +そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう? + +ーー村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチより +//} + +世界には、まだまだ多くの「壁」がある。そして、そこに「卵」は容赦なく投げられている。ウクライナ、イスラエル、パレスチナ……。多くの人が苦しめられ、そして命を失っている。それだけではない。「仲間」か否かを分ける「壁」も多くある。それが、仮想世界のコミュニティにおいても。 + +それは昨年の九月二十五日だった。私が初めて参加したイベントで紹介された、長く顔なじみだったイベント。そのイベントの終わりが、翌月に控えていた。そして、その日、私は打ちひしがれた。二週間の仮想学園生活、私だけが、点額してしまったのだ。イベントの仲間が多く及第する中、私は、その孤独に耐えなければならなかった。「壁」を感じてしまったからだ。そんな私は、「壁」で隔てられようとしている世界に共感した。十月一日、ウクライナを侵略中のロシアは占領している四州の併合を宣言したのだ。暴挙を許しておけるか。私の怒りは、ロシアに向いた。そして、ウクライナはよく戦っている。私にとって、壁にぶつけられている「卵」はウクライナの人々だったからだ。そんなウクライナからの贈り物が、井の頭公園駅を再現した仮想世界のワールドだったのだ。そこから、私は井の頭公園に通うようになったのだ。 + +そして、私は小説を書いていた。井の頭公園を舞台に選んだ二人の作家、村上春樹と太宰治。特に、うまく生きられない私は太宰に心酔していた。太宰が見た景色を、見に行こう。そう思い立って、私は新幹線の切符を予約していた。津軽に行くことは、カリンにもここねにも止められそうになった。そんな出発の前日、アレが起こったのだ。カーネル・サンダースの見せる奇妙な幻に打ち勝ったとはいえ水に飛び込もうとした私を、カリンが止めないはずもない。だが、私は一人で行かせてほしいと告げてきたのだ。全てに整理を付ける。そんな気持ちだった。 + +== 承 + +新幹線は朝の東京駅を軽やかに走り出した。新青森まで、三時間とちょっとの旅。一路北に走る列車に揺られて、私は新青森の駅にたどり着いた。ここから在来線を乗り継いで五所川原に向かう。東京の電車のようなロングシートには、旅情がない。だが、これも仕方が無いのだ。昔のような列車はもう走っていない。そんな鉄路に揺られて、列車は川部の駅にたどり着いた。階段を渡り、五能線の列車に乗り換える。途中、車窓にはりんご畑。今にも泣き出しそうなどんよりとした空、そして翌日の嵐の予報。りんご畑に実るりんごは落ちずにいられるだろうか。 + +//quote{ +ーー無事を祈る嵐の前の林檎の実 +//} + +五所川原駅に着き、津軽鉄道に乗り換える。切符を買う時間がないのでそのまま列車に飛び乗るが、どうやら現金で払えばよいらしい。椅子に座ると車掌さんが声をかけてきた。 + +「どちらまで行かれますか?」 + +すかさず、私も答えた。 + +「芦野公園まで」 + +そんな車掌さんは、かばんの中に手を入れていた。 + +「あ、でしたら地図をどうぞ」 + +手作りの、芦野公園駅周辺の地図。今回の目的は、あの男の産まれた地を歩くことであった。あの男の碑を、そして、生まれ育った家を見てきたかった。だから、あわてて新幹線を予約したのだった。そして、今私は金木に向かう列車の座席に座っている。心が、何かで満たされていく思いだった。そんな列車は、警笛を鳴らし、ゆっくりと走り出した。 + +「津軽鉄道にご乗車、ありがとうございます」 + +車掌の声は、津軽訛り。東京では決して聞くことのできない響き。それは、私が異世界を訪れていることを実感させるものだった。コンクリートのジャングルから離れて、長閑な田園地帯を行く列車に揺られることは、何もかもが心地よかった。そして、津軽弁の響きも、また、耳には新鮮だった。 + +列車は金木目指して走り続けていた。ふと、前を見やると雨粒が窓ガラスに当たっていたのだ。これは、天気が悪くなりそうだ。そう思った私は金木で降り、斜陽館と新屋敷を巡ることにしたのだ。そんな金木に着くと、乗務員はタブレットを駅員に渡している。タブレット閉塞。日本から、消えてしまったと思っていた。昔の技術だが、こうして生き残っているのだ。その様子に感動しながら、私は金木の駅を出て斜陽館に行くことにしたのだ。道中は、閑散としていた。降りてしまったシャッターが、ただ悲しさを思い起こさせる。何が、残っているのか。途中、移築されてきた新屋敷の前を通る。ここもまた、あの男に縁のある建物ではあるが、あとで巡ることにして斜陽館に向かうのだった。 + +斜陽館の前に、たどり着いた。かつての栄華が偲ばれる華麗な建物。あの男の生家はこの地でも有数の富豪であった。そんな私も、一応エルフの森の王の娘ではある。だが、遊学に行くと言って国を出てからまだ帰れていないのだ。近々、帰る必要がありそうだ。だが、そうもしていられない。私は、その建物に圧倒されていた。ここが、あの男のルーツなのだと。『津軽』の本を取り出しながら、私は物思いに耽っていた。 + +そう、今夜は久しぶりにかつて通っていたイベントが復活するのだ。ただお風呂に入り、ただ駄弁る。それだけだが、妙に暖かかった。心地よい場所。帰る場所。だからこそ、そのイベントがなくなったときに、妙な悲しみに襲われたのだ。おそらくは、帰郷したあの男も似たような心境だったのだろう。彼の故郷に対する思いは、このような言葉で綴られていたのだ。「汝を愛し、汝を憎む」。私も似た思いだ。あの時、イベントが残っていれば、このような惨めな思いはしなくてすんだだろう。だが、決断は尊重する必要がある。だからこそ、受け入れるつもりでいたのだ。そこに「壁」が出来てしまったのである。「卵」である私は、その「壁」に投げつけられて砕けたのである。だが、流石に「卵」が多すぎたのか、その次の回に「壁」の内側に入れることにはなった。だが、それは少し空しくもあった。なぜなら、あのイベントの旧友はそこにはいなかったからだ。なくなったはずの「壁」は、依然として私の心の中に強く残っていたのだ。そんな思いを、帰郷した時のあの男も抱いていたに違いない。あのイベントの再開記念の会に行くことは、「津軽」に帰ることである、と私は感じたのだ。 + +意を決し、彼の実家を訪れる。 + +「見学の方ですか?」 + +管理を行っているであろう方から声をかけられる。 + +「はい、大人一枚お願いいたします」 + +私はそう言って入館料を差し出した。荷物を預け、屋敷の中に足を進める。とても、大きな家だ。様々な絵が飾られたその家からは、かつての栄華が偲ばれた。あの男の実家は地主であり、金貸しも行っていたという。それが、あの男を憤慨させたのだ。民から搾り取った、偽りの財。彼には、そう見えたのだと思う。それが、彼を左翼活動に走らせたのだ。おそらく、私でも、義憤に燃えていただろう。部屋も多く、多くの使用人がいたであろう事を想起させる。その片隅に、彼の暮らしていた部屋はあったのだ。館のとある一室には、漢詩が書かれていた。その中に書かれた斜陽の文字こそ、彼の原風景に残る言葉であったのだろう。 + +この館を訪れた感想としては、人間は恵まれた環境に生まれてもなお、環境の変化によって生きづらくなるものであるということだった。おそらくあの男と私は人間としての確固たる理想を持ちながら、うまく生きられない苦しみで常にもがいてきたという点では共通しているのだ。彼の、生まれてきてすいませんという言葉も、おそらくは理想と現実か乖離から来るのであろう。そして、それはエルフの小王国の王の娘として生まれた私も同じなのだ。私の父である先代の王は既に亡いが、現在の王である兄も、姉も妹も私のことを気にかけてくれていこことはわかっている。だが、私は伝統を墨守し、かくあらねばならぬという行き方に反発して今は三鷹市の小さな住まいに住んでいるのだ。あの男もこの豪華な館を離れ、三鷹に住まい、その地で最期を迎えている。我々が井の頭公園に魂を引かれているとすれば、それは運命の出会いだったのだろう。だからこそ、私は言葉で勝負する道を選んだのだ。私は、自らの力で、道を切り拓くのだ。実に、それは無謀な生き方を選んでしまったかもしれないが。だが、私は後悔していない。誰かの選択で後悔した場合、一生悔やむことになるだろうから。 + +さて、蔵へと向かう。この屋敷には収穫した米を収める蔵と書面を集める蔵の二つがあり、書面を集める蔵はあの男の関連資料の収蔵庫になっていた。直筆の手紙の写しなどの様々な資料などがあったが、世界各国の言葉に訳されたあの男の著作もあったのだ。その中で、私は気になる一冊を見つけた。ウクライナ語に翻訳された『走れメロス』を収録した一冊の本である。この本に、私は世界のつながりを、見出したのだ。優れた言葉は、万里を越える。だからこそ、私も万里の先に言葉を届けられる物語を書きたいと心から決心したのだ。私がこの屋敷を出たとき、胸にはただ驚きだけが詰まっていた。 + +館を出た私は向かいの土産物店らしき建物に入った。中はスーパーマーケットと土産物店を合わせたような店であり、その片隅に食堂があった。その中に、私は気になるラーメンを見つけた。金木特産の馬肉を使った味噌ラーメンである。あの男も馬肉を食べていたのかと思うと、興味が出てきた。私はお金を券売機に入れると、カウンターに食券を出していた。ほどなくして、ラーメンが出来上がる。一見すると普通の味噌ラーメンだ。しかし、上に乗っている馬のすじ肉を口に入れると滋味が口中に広がる。これがまた至福の時である。スープを飲み干すまで食べると、頭を下げて店を出た。 + +その足で、この屋敷の離れだった建物に向かう。ここもあの男が戦争中に疎開してきたときに住まいとして使っていた建物である。ここの作りは母屋には劣るが、所々補修されたそのたたずまいはこの建物が生きていることを感じさせてくれる。居間らしき部屋も良い作りであり、あの男の実家は裕福だったのだと感じさせられる。まさに、私と同じなのだ。私も、国にいればまともな暮らしはできたに違いない。だが、私の魂はそれを許さなかった。新しい世界で進歩するために、己の「壁」を越えるために、国を出てきたのだ。決して暮らしは楽ではないが、新しい世界で自分の力で生きていくことは、実に自由なのだ。誰かに敷かれたレールの上を走るのか、荒野の道なき道をただひたすら突き進むのか。レールの上しか動けない人生は一見すると楽で幸せである。だが、レールの敷かれていない所を突き進むには草を薙ぎ払い、足跡を道にして自分の力で一歩一歩進むしかないのだ。どちらにせよ、己の足跡を荒野に道として残すのは苦行である。だが、それを私の意思で決断したということだ。レールをはみ出すには、覚悟がいる。それを何も持っていないうちに決断できたことは、幸いといえるだろう。なぜなら、人間が一旦持ってしまったものを棄てるには覚悟を決めないといけないからだ。人は変化を恐れる。ましてや、エルフはそれ以上だ。そんな中、私は「壁」を越え、道なき原野に道を作る道を選んで良かったのだろうか。疑問は、ないわけではない。そう思いながら、私はあの男が疎開してきたときに泊まった部屋に足を踏み入れた。その時、私の魂に電撃が走った。ここに来るために、生まれてきたのだ。私は、そう実感した。あの男の人生は、私の人生とやはり重なっている。だから、私の魂は彼に共振したのだ。だとすると、私の未来は何だろう。まさか、玉川上水は常に手招きしているのではないか。私が希望を保ち続けるという保証は、ないのだ。だが、私に、私の人生に期待してくださっているお方がいるのだとも感じている。もし、私がバッドエンドを選んでしまったら、カリンは、ここねは、悲しみに打ちひしがれてしまうに違いない。私にチャンスを与えてくれた様々な人たちを裏切り、悲しませることになるだろう。だから、それだけはすまいと思ったのだ。私が希望を抱いていることは、間違いではないのだ。他の誰もが希望を抱いていることも。希望を抱くことが間違いだなんて言われたら、そんなのは違うと言い返す勇気が必要なのだ。あの男も、言い張っていた。 + +「命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬!」 + +ここにいないはずの男の声が聞こえてきた。そう、私は、希望を抱くべきなのだ。そして、それは、間違いではないのだ。私が生きていることで誰かの支えになるとしたら、それは光栄に値する。だから、私は生きよう、そう決心したのだ。 + +そうこうしているうちに日は暮れ、辺りはすっかり暗くなってしまった。私は金木の駅から列車に乗って、青森へ向かうことにした。途中乗ってきた学生たちの若々しさを感じつつも、その数がまばらなことは少し寂しかった。五所川原からは青森まで行く列車に乗るのだが、交換で入ってきた普通列車に学生たちが多く乗っているのを見ると昔の甘酸っぱい思い出が蘇ってきた。そうだ、今日はあのイベントが復活する日なのだ。なら、是非とも顔を出したい。幸いながら、私はその地に行くことができる。だからこそ、今夜の宿に急ごう。五所川原駅に入ってきた青い観光列車に乗ると、私は腰掛けの背もたれを倒し、少し微睡むことにした。鉄路はゆりかごとなって、私を青森の駅に運んでいた。青森の駅で、私は降りる。不意にお腹がすいてきたが、青森の夜は早いのだ。開いている店は、ラーメン屋しかなかった。だが、これでも食いっぱぐれるよりはましである。そんな私はラーメンをかき込み、宿へと急いだのだった。 + +== 転 + +宿について不思議な眼鏡をかけると、辺りの景色は一変した。私は洞窟の入口に立っていた。その傍らには、青い髪の青年。彼こそがこのイベントの主催者である。 + +「お久し……ぶりです……」 + +もどかしいような感じがする。目の前に、「壁」があるような感じがするのだ。井の頭公園の駅で感じたような、見えない「壁」。だが、どこかに飛び越えるべきフェンスはあるのだ。しかし、私にその勇気はあるだろうか。私は、元気であるべきなのだ。希望を持って生きるべきなのだ。そして、それは間違いではない。なら、目の前に、見えないフェンスはある。私は意を決して、そのフェンスを飛び越えたのだ。 + +「また、みんなでお風呂に入れるなんて、夢のようで……」 + +青年の笑顔を見る。私は、あのフェンスを飛び越えられたのだろうか。そして水着に着替えた私はゆっくりと湯船に浸かる。このぬくもりこそ、私が求めていたものなのだ。もし、あの時「壁」に隔てられなければ、私は苦しむことがなかっただろう。だが、「壁」を越えることもなかっただろうし、成長もしていなかっただろう。「壁」に直面したおかげで、今の私がある。そう思うと、全てに感謝したくなったのだ。 + +「……ありがとう」 + +私は自然とこの言葉を口にしていた。そう、私には、価値がある。そして、意味がある。だから、絶望するのはもったいないのだ。ふと、目の前がにじむ。だが、何か重い荷を降ろしたような気がするのだ。ここに、「壁」は崩れ去った。願わくば、世界を隔てる「壁」も崩れ去ってほしいのだ。天井のない牢獄に苦しむ人たちもいる。その人の苦しみも消え去ってほしいのだ。そして三十分はあっという間に過ぎ、皆で記念写真を撮ることになった。湯船に皆で並んで記念写真を撮る。後でその時の写真を見たが、その時の私は涙こそ浮かべていたものの、笑顔を浮かべていたように見えたのだ。ここに、私たちの新たな歩みは始まったのだと、心から信じよう。 + +== 結 + +夜のうちに嵐があったようだが、翌朝は風こそ強いものの穏やかな晴れ間だった。今日は、一人でまた温泉に行こう。そう思って、私はローカル線の電車に飛び乗った。ガタゴト揺られること数十分、私は浅虫温泉の駅に立っていた。ここも、あの男が訪れた温泉である。私は共同浴場に向かうと、湯船に浸かる。あの時のぬくもりが、蘇ってきたのだ。浴室に入ってきたお婆さんと、私は話し込んでいた。身も知らずの若い人と、気さくに話してくれるお婆さんの心も、何より温かかった。長い耳のことを聞かれたが、これはコスプレの衣装だと言うことではぐらかしておいた。まあ、本当のことを言ってしまうと大事になりそうだったのだ。そして、浅虫の湯も良いお湯であった。身体も心も温まった私は、青森で大間の鮪丼を食べて、新幹線で東京に戻るのだった。東京の駅に着いたとき、どっと疲れが噴き出した。確かに強行軍だ。身体は疲れていないはずがない。だが、自然と心は朗らかだったのだ。全ての「壁」が、崩れ去ったような気がするのだから。そして、私は井の頭公園の駅に帰り着いた。駅の改札も、すんなり出られた。その改札を出たところに立っていた二つの人影を見ると、私の目から涙が溢れた。 + +「おかえりなさい。心配、したんですからね……」 + +紅玉のような瞳が、私に向けられている。カリンは、私を待っていたのだ。私は彼女を抱きしめる。そのぬくもりが、実に温かい。 + +「無事に帰って、来てほしかったんです……」 + +背中からここねに抱きしめられる。胸が痛むほど、彼女らの愛を感じたのだ。私は、帰ってきた。魂の天井なき牢獄から。私の魂は、見えない「壁」の中に閉じこもっていたのだ。もはや、私の魂は、誰とも隔てられることはないだろう。もはや、私は、孤独ではないのだ。 + +「さ、帰りましょう。帰ったら、ハオランがボルシチを作って待っていますよ……」 + +つながりのぬくもりが、私を包んでいるのだ。街灯の下、三つの影は、帰るべき場所に帰ろうとしている。これからも、彼女たちの歩みに幸せのあらんことを。 + + diff --git a/chapter/watashi-no-yume.re b/chapter/watashi-no-yume.re new file mode 100644 index 0000000..dbad34a --- /dev/null +++ b/chapter/watashi-no-yume.re @@ -0,0 +1,233 @@ += 私の夢 + +//quote{ +あなたの、そして私の夢が走っています。 +ーー杉本清(元・関西テレビアナウンサー) +//} + +冬の中山競馬場は「夢」を求める者たちで溢れていた。今日は、有馬記念の日だ。このレースは人気投票で出走馬を決めるという一風変わった方法がとられている。そして、世界で最も馬券が売れるレースでもある。今年の競馬は漆黒の天才・イクイノックスを軸に回っていた。だが、そんな彼もターフにはいない。前走のジャパンカップを以て現役を引退したのだ。そんな彼相手に玉砕覚悟の大逃げを挑んだパンサラッサも引退するという。それ故に、有馬記念は混戦と見られているのだ。そんなパドックには、二人の姉妹の姿があった。 + +「姉さん、帰りの交通費は残しておかないと……」 + +ミントは姉のライムに忠告する。どうやらライムは先ほどのレースで手痛い敗北を喰らったらしく、残りの軍資金が心許ないようだ。 + +「そんなミントはどうなのよ……?」 + +全然だめと言いたげな顔で姉に応える。かなり、勝負に使ってしまったようだ。ただ、帰りの交通費だけは残しているらしい。 + +「あ、そこにいるのはカリンさんのお姉さんではありませんか!」 + +ライムにはこの声は聞き覚えがあった。妹のところに最近よく来る編集者だ。もっとも、妹というよりはその愛する人の方に用があるらしいが。 + +「あ、かなえさん、こんばん……こんにちは……」 + +ドキッとしたような顔で振り返るライム。まさか、知っている人に会うとは……。振り返ると、案の定かなえであった。その隣は、恋人のシュウジもいる。 + +「あのカリンさんのお姉さんが競馬好きとは……知らなかったよ……」 + +そんなシュウジは競馬新聞を一心不乱に見つめている。次の有馬記念の検討をしているのだろう。そういうミントもスマートフォンで予想を眺めている。ただ、ライムだけは様子が違っていた。彼女は既にマークシートに印を付けている。四番の単勝、そう、本命はタイトルホルダーだ。彼もこの有馬記念が最後のレースなのだ。そして、今やイクイノックスはいない。ならば……チャンスはあるだろう。 + +「よし、これで……」 + +迷いもなくライムは金額欄に十万円をマークする。諭吉を、十枚も、つぎ込むのだ。 + +「姉さん……これじゃ、帰れなくなるじゃない……」 + +ミントが止めようとするが、既にライムは券売機へと向かって歩き始めていた。 + +「かなり、勝負師だな……帰りの金がなくなったら、貸すか。カリン経由で返してもらえればよいし……」 + +シュウジは心配そうにミントを見つめる。 + +「あ、大丈夫ですから、ご心配なさらず……」 + +ミントによると、ライムの勝負はいつものことらしい。自信満々に賭け、自信満々に負けるのだ。その割には確証が持てていないときに大当たりする事もあるという。そんなミントもスマートフォンに買い目を入れている。 + +「私は競馬のことがよくわからないんですが、何が来ると思います?」 + +かなえはミントに質問をする。ミントは手元の画面で買い目を見せた。 + +「私の予想だと、十番のジャスティンパレスと十六番のスターズオンアースは来ると思います。そこから一番のソールオリエンスと四番のタイトルホルダー、十五番のスルーセブンシーズ辺りでしょうか……」 + +だが、かなえの目は一頭の鹿毛馬に目を奪われていた。ドゥデュースだ。ダービーを勝って海外遠征したものの、今年の初めの京都記念以降勝てていない。しかも、前々走と前走では乗り替わりもあってなかなか本来の実力を出せなかったのだ。今回は武豊騎手が再び乗るのだ。しかも、あのイクイノックスは、もういない。 + +「では、このドゥデュースからミントさんの言った馬に三連単を……」 + +ドゥデュースは二番人気だ。だから、十分勝てるのだろう。だが、シュウジの見立ては違っていた。 + +「何か、消しかなと思った……まあ、勝負するなら八番のライラックか……」 + +シュウジが指したその馬は、三歳初戦のフェアリーステークス以来勝っていない。しかも、このフェアリーステークスはマイル戦だ。長すぎるかもしれない。だが、彼女は昨年のエリザベス女王杯で二着同着となり、大荒れとなった実績があるのだ。三着に来るだけでも、かなり怖い。どうやらシュウジは彼女からワイドで流すようだ。当たれば大きいかもしれない。 + +「それにしても、姉さんったらぺこーらみたいなまねをして……」 + +そう、ミントが思い出していたのは昨年の有馬記念だ。ブイチューバーの兎田ぺこらがタイトルホルダーの単勝に五十万円をつぎ込んだのだ。しかも、今年の春の天皇賞でも同じく五十万を。結果は有馬では九着、春天では競走中止という散々な結果だった。百万円も負けているのである。百万円も溶かすのは、正気の沙汰ではないとミントは思っていた。それだけタイトルホルダーへの愛が強い証拠か。 + +「止まれ!」 + +パドックに声が響き渡る。騎手たちが、騎乗する馬に向かう。そして、ヤネを乗せた馬たちはしばらくパドックを一周する。すると、突如ライムがつぶやきだした。 + +「タイトルホルダーで、勝負しようと思ってる……」 + +ミントには姉のその言葉には聞き覚えがあった。だいたい結末がわかるとおもうが、そんなライムの独白を三人は黙って聞いていた。 + +「中山のみんなには、悪いけど。抜け駆けで。この前の給料日、ボーナス入ったから。単勝十万つぎ込んで。そこで勝負に出る。ライムは大当たりしたことないから。びっくりするかもだけど……もう一攫千金を我慢できないから!」 + +途端に寒くなる三人。そんなライムに、かなえが釘を刺す。 + +「チキン冷ますのだけは勘弁してくださいね……」 + +そういいながら、かなえもシュウジも手元のスマートフォンを触る。無事、馬券は買えたようだ。今の世の中、スマートフォンで馬券が買える時代なのである。もちろん、ミントも準備は万端だ。 + +「ま、姉さんのことだから今年もチキンは冷ますと思うけど……さ、行きましょ?」 + +ふと、ライムはもう一度手元の馬券を見返してみると、それは複勝馬券だった。 + +「あ、買い間違えた……」 + +ミントからすれば、姉のおっちょこちょいはよくあることなのだ。だが、それでも三倍にはなる。当たれば、実に大きいだろう。気を取り直してそんな四人は、夢を応援すべくスタンドに向かうのだった。 + +真冬の中山競馬場に、ファンファーレが響き渡った。それと共に、出走各馬がゲートに入っていく。ターフビジョン越しにそれを見守る観客の気持ちも高鳴っていた。 + +「複勝買っちゃったけど、それでも……」 + +ライムは推しが先頭で駆け抜けることを心から祈っていた。その傍らで、ミントはスマートフォンに見入っていた。そう、兎田ぺこらの配信を見ているのだ。 + +「ぺこーらも、姉さんと同じみたいで……でも、五十万……」 + +そう、彼女もライムと同じく、タイトルホルダーに複勝をつぎ込んでいたのだ。画面の向こうでも、多くの野うさぎたちがこのレースの結果を見守っているのだ。そして、運命の時に、ついに至ったのだ。 + +ゲートが開く。大歓声が、中山を揺らすのだ。まず始めに出てきたのがスターズオンアース。その後ろにハーパー。タイトルホルダーはスタートでは先頭を譲ったが、すぐにハナを切った。その後ろにはスターズオンアースがぴったりマークしている。中団には、タスティエーラとソールオリエンスの三歳馬、後方にはジャスティンパレス、そして怖いドゥデュース。 + +「お願い、そのまま、先頭で……」 + +ライムの心の内に秘めた感情が漏れ出る。その傍らでかなえはドゥデュースに視線を向けていた。鞍上は、武豊。ターフの魔術師だ。彼なら、先頭をもぎ取ってくれるだろう。後は、そのままの決着であれば……。 + +「悪くは、ありません、ね……」 + +その傍らではシュウジはレースの様子に集中している。彼の推すライラックも、また後ろだ。距離は長いかもしれないが、昨年のエリザベス女王杯で魅せたあの末脚を見せてくれると信じている。握られた拳にも、力が入る。 + +レースはそのまま第三コーナーへと進んでいく。ヤツが、動き出した。馬群の外を上がっていくドゥデュース。先頭は未だにタイトルホルダー。後続に、大きな差を付けている。ライムが、そして画面の向こうのぺこらが、野うさぎたちが、叫び出す。そのまま、そのまま! その願いよ、通じておくれ……。皆、タイトルホルダーが最後に栄冠を飾ることを願っている。だが、第四コーナーでは、その差は縮まっていた。後ろから、ドゥデュースとスターズオンアースが迫る。でも、まだ二馬身のリードはある。 + +「やめて、来ないで……!! そのまま、そのまま!!」 + +後続からさらに馬が追い込んでくる。残り二百を切る。まだタイトルホルダーは、先頭だ。だが、外から矢の如く流れてきたドゥデュースに抜かれてしまったのだ。そして、スターズオンアースにも。ライムの、緊張の糸が、切れた。さらに、ジャスティンパレスも迫る。その場に倒れ込むライム。 + +「ね、姉さん!」 + +かなえもライムが心配で駆け寄る。 + +「わ、私の、ボーナスが……」 + +ライムは、完全に放心状態だ。だが、彼女が買っていたのは複勝だ。ただ、シュウジだけが掲示板を見ていた。 + +「おい、タイトルホルダー、三着だぞ!」 + +順位が、確定した。再び馬券を見つめるライム。タイトルホルダーの複勝、十万円。それを見たとたん、ライムの顔は笑顔に変わったのだ。 + +「や、やったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 + +かなえもスマートフォンを見ると、一着から三着までの馬が買い目に入っていた。三連単、的中である。 + +「よ、よんまん、にせんひゃくじゅうえん!!」 + +ビギナーズラックに、彼女の顔も輝いていた。まあ、隣のシュウジはダメだったが。そして、ミントはスマートフォンを見せたのだ。画面の向こうでは野うさぎたちも喜んでいた。ぺこらも、タイトルホルダーの複勝を的中させたのだ。百円が三百三十円に化けた。ライムの勝ちは三十三万円である。ぺこらに至っては、これまでの負けを取り返すだけの大勝ちだった。 + +「姉さん、おめでとう!」 + +ミントがライムの肩を叩く。 + +「これで、熱々のチキンを、届けられるわ……」 + +そう、今日はカリンの家でクリスマスパーティーがあるのだ。 + +「あ、私たちもごいっしょしてかまいませんか?」 + +かなえもライムに問いかける。 + +「今、聞いてみるから待ってて」 + +ライムはスマートフォンでカリンに連絡すると、その向こうからは快い返事が。 + +さて、することは一つである。かなえはスマートフォンで買ったので手元で全てが完結するが、ライムにはしなければならないことがあった。そう、払い戻しである。 + +そして、当たり額であることに気付いてしまったのだ。これは、確定申告をしなければならなくなったと。年間の当たりなどの一時所得が九十万円以内であれば何とかなるのだが、今回でその額を超えてしまったのだ。会社勤めのライムは年末調整だけで済ませてきたが、確定申告という厄介なものが必要になってしまったのだ。今のご時世、物価は高いし、税金も上がろうとしている。できれば生活のためにとは思うが、エルフの先生が日々言っている通り、世界では隣国の不法に苦しんでいる人たちもいる。そして、その援助に、我々の税金が使われているのだ。そのおかげで、隣国が我々に刃を向けることを防いでいるのだ。だから、税金は納めることに意義があるのだ。それに、困ったときにも助けてくれるのが税金だ。だから、おとなしく納めよう。 + +「でも、当たっただけよし、ね……」 + +ライムの番が来た。投票機に当たり馬券を入れると払い戻し金額が表示された。三十三万円、これはサラリーマンの月給並みだ。ライムは封筒にお札を入れると、笑顔を浮かべて皆の前に戻ってきた。 + +「姉さん、おめでとう!」 + +ミントが姉に抱きついてきた。その傍らではかなえとシュウジも笑顔を浮かべている。 + +「よい年末が、迎えられそうね……まずは、熱々のチキンを!」 + +ライムの笑顔は、晴れやかだった。 + +一行は中山競馬場を後に、西船橋駅に向かっていた。競馬帰りの人が多く乗っているため、武蔵野線の電車は混み合っている。そして、西船橋の駅もだ。地下鉄に乗り換え、一行は吉祥寺を目指す。 + +「来年も、いいことがあればいいわね……」 + +荒川を渡る車窓を横目に、ライムは未来に想いを馳せていた。ほどなくして電車はトンネルに入る。都心の駅に停まりながら、銀色の電車はひた走る。あの優駿たちのように、多くの人の夢をのせて。 + +中野を過ぎ荻窪を過ぎ、西荻窪を過ぎた。もう少しで吉祥寺だ。うとうとしていたライムはかなえに肩を叩かれて気付いたのだ。もう、吉祥寺ではないか。 + +「さ、降りますよ……」 + +電車のドアが開いた。ライムたちは電車を降りると、今夜のクリスマスパーティーのための料理を用意したのだった。もちろん、熱々のチキンも忘れていない。 + +「いろいろ調達したら、さ、行こうかしら」 + +そして井の頭線で一駅。ライムは井の頭公園の駅前のチーズケーキのお店に立ち寄ると、クリスマス用のチーズケーキをお土産に買い求めたのだった。 + +「そういえば、ラスクはありますか?」 + +首を横に振る店長。ラスクは新年になると聞いたライムはまた出向くと伝えたのだった。 + +「あ、もしかして、カリンさんのお姉さんですか?」 + +こくりと頷くライム。 + +「いつも、エルフ先生がお世話になっているとお伝えくださいね」 + +その言葉に、微笑むのだった。お店を後にしたライムはそのままカリンの住む家に向かっていた。この駅の周りには、二人の妹が住んでいる。その姉妹が、今集まっているのだ。あの結婚式の前の晩のように。ほどなく歩くと、カリンの住むアパートが見えてきた。玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。 + +「あ、姉さん? 今、開けるわ!」 + +カリンがドアを開けると、そこには熱々のチキンを持ったライムが立っていたのだ。 + +「ああ、熱々のチキンか……残念ながら、私はダメだったよ……」 + +エルフ先生も、どうやら有馬記念でボロ負けしたようだ。まだ東京大賞典があると言っていたが、その次の日はコミケである。 + +「軍資金には手を付けちゃ、ダメだから……」 + +カリンが釘を刺すが、エルフ先生の勢いは止まらない。 + +「まあ、菊池寛も言っていたが、手を付けてはいけない金に手を付けてからが勝負だよ……それに、ヘミングウェイも言っていた。競馬は、人生の縮図ってな……」 + +年に二度、私の、そしてあなたの夢が走る日。それが、今年も終わったのだ。 + +「それにしても、チキンって……私たち、シュクメルリ作っちゃったわ……」 + +その一方で、ラスクとハオランは頭を抱えていた。よりによって、チキンで被ってしまったのだ。 + +「どっちも食べれば、いいんじゃないですか?」 + +ここねとかなえが異口同音にツッコミを入れる。その傍らではシュウジが頷いている。 + +「今日は、美味しい酒が飲めそうだ……時には筆を休めて、な……」 + +そんなエルフ先生は駅前のエノテカで買ってきたワインの箱を見せる。バルベーラ・ダスティだ。これが三リットルも入っているのだから、今日は飲み物に困らないだろう。 + +「あ、これ、持ってきたのですが……あと、未成年もいると聞いたので、これも……」 + +かなえが持ってきたのはシャンパンだった。そして、未成年のここねには上質の紅茶を。 +「ありがとうございます。お湯、湧かしてきますね! あ、先に飲んでてよいですよ……」 + +ガス台に薬罐をかけるここね。その一方で、ラスクはここねのグラスにオレンジジュースを注ぐ。そして、皆のグラスにはシャンパンが注がれる。乾杯の準備が整ったところでエルフ先生が口を開く。 + +「では、今年の楽しい思い出と、来年の幸せのために……ガウマルジョス!」 + +グラスが当たる音が部屋中に響く。今年一年の労いの宴は、今、ここに始まったのだ。